× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
直路城所在地(国土地理院地図へ)
直路城探訪ルート(ジオグラフィカ使用) 別名清水城という。 標高1900mの柄沢山の尾根先に築かれた城である。 西麓の登川沿いを走る清水街道(国道291号)を抑える位置にある。 国道291号線の途中から見上げた直路城遠景。 越後と関東を隔てる清水峠への途中に作られた城。 南魚沼市内から国道291号線を南下していき、車両通行止めに当たった所に城がある。 直路城の麓、国道291号線の車両通行止め地点の様子。 ここに車を停める人もいるようだが、折り返していく車の事を考慮し道路を戻って路肩に停めて訪問した。 先の行き止まりから左に曲がって徒歩で登て行くと写真の登山道に出る。 写真の場所は地図の現在地(赤矢印)になる。 痩せ尾根を堀切で数条切るだけのシンプルな遺構だが、堀切は思ったより深く鋭い。 尾根筋まで登り、北の山間を見る。 高い山に囲まれているものの、旧塩沢町の中心地が見渡せる。 直路城の鳥観図風お絵描き。 主郭から背後のみならず麓に向かって三条の堀切がある。 これは麓からの攻撃に備えたものである可能性を示し、 関東から越山した勢力が平野部に向けての拠点とつかわれていた可能性もある。 PR |
暮坪城所在地(国土地理院地図へ)
暮坪城へのルート 暮坪城遠景。 暮坪城自体は主郭が無く、尾根を封鎖するために作られた 比高20m程度の小さな砦である。 暮坪城への入口は八海酒造付近の県道を挟んだ麓にある。 上の地図にある現在地(赤矢印の所)が入口の場所。 ハイキング道として整備されており、 藪漕ぎもせずに城に行けるのはありがたい。 ちなみに今回八海酒造北西の水田地帯の道に路駐した。 入口のアップ。 入口を入ってすぐの所に熊の目撃情報が書かれていた。 登り始めて最初の曲輪に五輪塔が建っていた。 果たして誰の墓なのであろうか。 城内の様子。 堀切が連続している所を撮影しているが、 堀が浅くて障害物になっていない気が。 最深部の堀切から細越古城までは人工の地形はあったが、 城と呼べる構造体ではなかった。 なのでここまでが暮坪城の全体と見て良さそうだ。 暮坪城の鳥観図風お絵描き。 細越古城から派生した尾根の先端部分を加工した遮蔽構造であり、 暮坪城自体は城と呼び難い構造となっている。 比高20m程度で堀切も浅いので簡素な造りと言える。 天文七年(1510)の長森原の合戦があった長森地区にあり、 この城も時の関東管領上杉顕定の最後を見届けたかも知れない。 歴史経緯の不明なこの城もそういう視線で見ると 感慨深い遺構になるのかも知れない。 |
苗場山城所在地(国土地理院地図へ)
苗場山城訪問ルート 六万騎城背後から北に延びる尾根先に作られた城。 城から更に三方に尾根が伸びているが、藪が多い。 その内中央の尾根はなんとか歩けるレベルであった。 写真中央の山が苗場山城。 入口の目印は城の北部にある小さな池で、 この付近の山林(写真左上の森)から入っていく。 三つの尾根の内真ん中の尾根を登り詰めると切岸が見えてくる。 ここは真横に伸びる灌木が無くて、歩きやすいのが良い。 しばし尾根を登ったら堀切が見えてきた。 別の堀切。 ここは入口が分からないだけで、 城自体は見やすくって助かった。 割とシンプルな構造ながら良い城だ。 苗場山城の鳥観図風お絵描き。 尾根先の小ピークを主郭とし、堀切と段曲輪をいくつかつけている。 ここの構造的に六万騎城の支城という役割であろう。 |
訪問ルートと駐車場(現在地)
御館城所在地(国土地理院地図へ) 御館t城の近景。 背後の八海山系の猿倉山(687.8m)から 北に派生する尾根先に築かれた城である。 遠くからは周囲の山に溶け込んで分かりにくい。 現地は大崎ダム公園となっており、 八海山の大崎口コースの入り口で駐車する。 駐車スペースは広いので、満車はまずない。 ここに車を停めて大崎ダム公園の中へ会談を降りて進む。 田川がダムによって堰き止められた人造湖を右回りに進む。 大崎ダム公園の案内図。 左上の破線先にチョロっと御館城が書かれている。 御館城の入り口。 入り口には御館城への看板が建てられている。 ここかはら道が狭く油断しないように登っていく。 やがて城の真下を通り城の付け根部分に到着する。 ここは木がないのでシダが繁殖しまい藪化しているが、 灌木でないだけ藪漕ぎは楽である。 右に曲がり主郭へ向かう。 主郭は広いが北に向かって傾斜している。 これで居住性があったのかは不明。 傾斜角度は写真の通り。 主郭脇の堀切。 木が無く堀底に降りるのがちょっと大変だったが、 見事なV字を描いている。 反対側から。 灌木で美しい堀切が撮影できない事が多いこの地域で、 非常に貴重な城と思えてしまう。 御館城の鳥観図風お絵描き。 田川の支流尻無沢と無沢に挟まれた尾根をりようしており、 周囲が高い山に囲まれている為か 杉が雪で倒木されず余計な灌木もない美しい堀切を見させてもらった。 一説には南北朝期の脇屋義治の館という言い伝えもあるように、 場所といい構造を見ても、れ用の城であった可能性は高いだろう。 |
湯谷城訪問ログ
湯谷城所在地(国土地理院地図へ) 湯谷城は雷土城(板木城)と同じ稜線上にあり、 遺構の構造と規模から雷土城の支城と言える。 湯谷城主郭部分にある解説板。 湯谷城主郭様子。 高い木はなく、周辺も1m程度の草藪に覆われている。 しかしこの辺りは急に崖になっていたりするので注意。 草藪に覆われていてもハイキング道があるので、 城全体を見る事自体は割と簡単である。 湯谷城の鳥観図風お絵描き。 主郭南の三連堀切は「六日町町史資料編第1巻」の図を参照させてもらった。 曲輪と呼べそうなエリアは主郭とその北東方向の曲輪のみで、 ほとんどが痩せ尾根で、堀切を執拗に掘っている。 これは籠城する城というより普段は物見として活用し、 有事には敵兵の侵攻を妨げる為の城と言える。 |